軍部の伸張なのか、危機感なのか (文革正史)<中>

2009年01月07日

軍部の伸張なのか、危機感なのか (文革正史)<上>」の続き。

1977年7月、トウ小平同志が復帰し、中共中央副主席、中央軍事委員会副主席兼中国人民解放軍総参謀長に就いた。3ヵ月後、私は、副総参謀長兼政治部主任の命を受けた。トウ小平が直接指導する仕事で、彼の教えを聞き、彼の支持を実行することは、私の人生の中で最大の幸せなことであった。総参謀部は、全軍を率先し真理的な指標問題についての討論を行い、これは小平同志の直接の指導の下に行われるものであった。

”四人組”が粉砕されてから、全国人民の切実な願いは、できるだけ早く”文革”の動乱した局面を終結させること、冤罪の名誉回復、経済発展に努力し国力を復興させることであった。しかしながら、1977年2月7日に両報一刊(人民日報、解放軍報、紅旗)名義の社説『文献をよく学習し要点を捉えよ』という文章で”二つのすべて”が提出され、引き続き”文化大革命”の誤りを堅持し、10年の動乱局面を延長し、トウ小平同志の復帰を阻止妨害した。

”二つのすべて”の発表は、トウ小平を厳しい批判に遭遇させた。彼は働き出してすぐに、私と楊勇、李達らの同志に、もし”二つのすべて”に従うのなら、私は仕事をする必要がない、あんなものがうまく行くはずがない、と語った。彼はまた、”文化大革命”の問題は、遅かれ早かれ解決しなければならず、この問題を後回しにして避けることはできないのだ、とも述べた。このような重大な問題を、トウ小平は、瞬時に我々に仔細に語り、我々を錯綜させるような複雑な情勢の下、終始明晰な頭脳であり続けた。

5月11日『光明日報』が『実践は真理を検証する唯一の基準である』の文章を発表し、真理指標問題の討論の幕が切って落とされた。翌日、『人民日報』が、この文章を転載した。一石が大波を引き起こした。思想解放を追及する多くの人々が、この文章を次々と喝采し、真理指標問題の討論が展開され、思想の呪縛を打破し、”二つのすべて”の呪縛が撃破され、党の実事求是という素晴らしい伝統が回復し、必ず重要な作用をもたらすと思われた。しかし、多くの”左”の思想が比較的深く人々に影響を及ぼしてていてこれを理解せず、毛主席の革命路線から逸脱するのではないかと思わせ、この文章は全くの誤りで、政治上、理論上、全てにおいて間違ったもので、これは旗を損じ、毛沢東思想の旗幟を損じるものであると非難するものまでいた。

この文章が発表されると、総参謀部党委員会は十分に重視し、直ちに学習を組織した。我々は、この文章は一般的な理論問題を詳述しているではなく、重大な政治問題と根本的原則問題を詳述していると意識していた。この重大な是非を前にして、全ての人々が旗幟を鮮明に表明しなければならなかった。

私は当時、総参謀部の政治工作を担っていて、総参謀部の日常工作を主事していた副総長・楊勇と私は、総参謀部は、迅速に、この大討論の支持を表明しなければならないと協議していた。トウ小平同志の指示を仰ぐと、肯定的な回答を得た。その後、総参謀部党委員会は、真理指標問題について学習討論を行う研究部署を置いた。私は、総参謀部党委員会の意図によって、総参謀部政治部の同志らと一緒に学習計画を立案した。うまく計画ができて、楊勇の同意を経て、小平同志に報告し差し上げた。トウ小平は、党と国家の重要な指導的職務を負い、彼が集中力を大事を把握することを保証するために、総参謀部党委員会は、ひとつの原則、”大事は伺い、小事で邪魔するな”を確定していた。我々は、真理指標問題の討論は、全局に関わり、学習計画は、小平同志の審査を伺うべきであると感じていた。

トウ小平同志は、総参謀部の学習計画を仔細に審査した後、私に電話してきて「あなたたちの計画を見た。非常によい!これまで我々は常に述べてきたように、理論は行動の指南、これでは足りず、実践が真理を検証するであることをも強調している。あなたたちは、実際と連係し考えなければならない」と語った。長い年月を経てなお、この言葉は今でも私の耳元によみがえってくる。トウ小平が、真理指標字問題の討論の支持を確固たる態度で示したことは、私に極めて深い印象を与え、我々総参謀部がこの行動に明らかな方向性を示すことにもなり、巨大な推進作用をもたらしたのだ。

総参謀部は、ただちに「実践は真理を検証する唯一の基準である」の大討論を展開し、全軍が扇動の作用を行い、強烈な反響を引き起こし、軍事工作の混乱を鎮め、総参謀部が全面的に建設し打ち立てた思想の基礎を強化することとなった。これは、小平同志の遠大な見識と総参謀部党委員会が定めた策が正確であったことを十分に証明している。

解放軍報「憶大転折中的几件事

「俺たちこそが正統だ」と。

回想は続きます。

10年の大災害は、全国に多くの冤罪をもたらした。総参謀部も全国と同じように、冤罪が非常に多かった。林彪、”四人組”およびその参謀部の腹心らが、人々に線引きをし、第一野戦軍幹部からは彭徳懐にいたる線、第二野戦軍幹部からはトウ小平に続く線、第三野戦軍幹部からは、いわゆる”二月逆流の黒幕”陳毅、譚震林にいたる線において、非常に多くの冤罪を生み出したのだ。全国的に震撼させた”二月逆流”冤罪事件は、陳毅、徐向前、聶栄臻などの老元帥らに公正な対応をせずに、老元帥らの邸宅の数名の従業員までもが巻き添えを食い、”二月軍事クーデター”の冤罪は、賀竜元帥をいわゆる”八二五”事件といわれている残酷な迫害に遭わせ、更に王尚栄などの多くの老同志が巻き込まれざる得なかった。羅瑞卿、徐海東、張愛萍、彭紹輝、李達、伍修権、王諍、孫毅らの老同志もまた、相前後して批判集会で晒され、家宅捜査、押収され、強制労働などの残酷な迫害を受けた、この”文革”期間に、総参謀部だけでも1,600人ほどが審査され批判集会に狩り出された。

林彪、”四人組”が総参謀部で生じた冤罪案件は、総参謀部の多くの幹部と民衆の工作の積極性を深刻に挫くこととなり、皆の思想を普遍的に抑圧する状態となり、多くの幹部の師弟も巻き添えを食らった。冤罪は名誉回復されず、多くの将兵の積み重なる恨みは静まることがなく、総参謀部の全面的な建設の歩みは遅々そして進まず、全てを話しきれない。冤罪の名誉回復は当面の急となった。

多くの冤罪に直面し、かつてその害を身に受けたトウ小平同志の心は炎の如く、できるだけ早く名誉回復するよう呼び掛けた。「総参謀部の冤罪は少なくない、我々は積極的に動き、名誉回復しっかり行わなければならない。一刻の猶予もなく直ぐに行わなければならない。同様に、これらに連座した人々と連絡が取れない場合があるかもしれないが、彼らの連絡を待っていては、あらゆる事が手遅れになる」と彼は我々に直々に伝えた。

総参謀部党委員会第一書記・トウ小平の的確に指示によって、我々は直ぐに関連部門を組織し、精鋭を選び出し、政策弁公室を立ち上げ、それぞれの”特別案件”の材料を真剣に事実を精査し鑑別し始めた。我々は、このプロジェクトは、幹部の政治生命に関わるものであり、厳格に真剣に対応し、それぞれの案件に必要な証拠を全てそろえ、それぞれの事実を全て穴のないように精査しなければならないと、担当職員に言い渡した。一点の過失も許されず、同志を誰も不遇な待遇とさせておくわけにはいかないのだ。

次々と発生する冤罪事件は、人々に衝撃を与えた。”文革”が始まってすぐに、林彪、江青ら一派は、賀龍の”二月軍事クーデター”の嘘をでっち上げ、賀龍を罪に陥れ、歴史的に”敵に寝返った”ことにしようと企んだ。康生、葉群は、賀龍を審査する『工作構想』に関する賀龍特別審査組を自ら画策、推進し、特別審査組に「純粋な客観主義は無用、傾向性があればよい」、「”右傾”防止」などを要求し、新中国成立前の日帝傀儡政権の報道にあった賀龍のいくつかの”報道”で罪に陥れ、このようにして賀龍の犯罪の証拠としたのだ。この一味は、不法に賀龍の親友、部下を拘束し、拷問を行い自白を強要し、矛盾している材料を繋ぎ合わせ、編集し、偽証し、罪名を賀龍に押し付けたのだ。建国第一世代の元勲・賀龍元帥は、このようにして冤罪という恥辱を受け、迫害され死に至ったのだ。

実に奇怪な案件もある。総参謀部の某部隊の1人の幹部は、うっかりと毛主席が紅衛兵に接見している写真に傷をつけてしまい、反革命分子とされた。ある幹部のたった5、6歳の子供が、間違ってスローガンを叫んだために、即刻、反革命分子とされた。一文字間違ってスローガンを叫んだり、一文字間違ってスローガンを記せば、投獄という災いに見舞われ、当時は皆がこの有り様だったのだ。これらを出来事を眺めると、腹立たしくなり哀しくもなる。総参謀部党委員会は、調査担当員に、「このような類似した案件について、断固、徹底的に名誉回復を行わなければならない。濡れ衣であり、結論が正しくないもの、どのような案件であったとしても、どのぐらい時間がかかっても、誰が許可したものであったとしても、全て正し、一点も留めず実践し証明しなければならない。幹部に潔白を、歴史に正道を与え、幹部と彼らの親族を、重苦しい精神的な呪縛から救い出さねばならないのだ」と要求した

この第十一期三中全会はまだ開催されていない時期に、冤罪の名誉回復の仕事に予想もしない抵抗力に遭遇した。中央の1級文書で定められている案件であったり、当時の中央指導者の自筆の指示があるものであったり、現在も指導的立場にいる何某が決定を下していたりと、それらを覆すことは非常に難しかった。小平同志は、「そんなものにかまうことはない、まずは名誉回復だ」と何度も言って我々を鼓舞した。彼の支持の下、このプロジェクトは、大幅な進展を得た。1978年12月29日、総参謀部党委員会は、審議を経て、11件の冤罪の名誉回復の決定を打ち出したのだ。

12月30日、中央軍事委員会の批准を経て、総参謀部は北京の工人体育館で1万人あまりが参加する名誉回復大会を開催し、林彪、”四人組”の迫害を受けた同志の名誉を回復し冤罪を雪ぐ政策を実施した。恥辱を受け冤罪とされた同志への真摯な気持ちを体現するために、総参謀部党委員会は、林彪、”四人組”の残酷な迫害を受けたことにある張愛萍、李達と賀竜元帥の夫人・薛明などの同志に貴賓席に招いた。大会は楊勇が主宰し、まず迫害を受けて死亡した第一世代の革命家・彭徳懐、賀龍、徐海東などへ沈痛黙祷し、そうしてから私が、総参謀部党委員会が11件の冤罪の名誉回復を決定し、52名の軍以上の指導幹部の名誉回復汚名返上を宣言した。

薛明代表が、迫害を受けた同志を代表して発言した。彼女は、林彪、”四人組”の犯罪を憤怒し訴え、会場の同志に悲憤が交錯し、多くの人が心を痛め涙した。会場に林彪と”四人組”に対する義憤と迫害を受けた第一世代革命家への同情が溢れた。大会は、恥辱を受け、冤罪とされた者のために徹底的に名誉回復を行うことを宣言し、会場全体が歓声が雷鳴の如くとなり、人心は大いに晴れ、多くの人々が喜び涙した。

総参謀部の冤罪名誉回復工作行動は素早く、力強く、名誉回復数は多く、勢いは大きく、全軍および全国にまで巨大な激震を引き起こし、良い結果をもたらした。大会の後、軍内外の多くの単位が、総参謀部の経験を学びにきた。当時、総後勤部部長を務め、復帰したばかりの洪学智が私に電話をかけてきて、この事件のやり方は良いと称賛し、思い切って冤罪の名誉回復を行わなければならないと語った。しかし、某ハイレベルの指導者が疑い私に「君達のこのようなやり方は、どのように考慮したものなのだ?どのような結果を想定しているのだ?」と聞いてきた。私は「我々の行っていることの全ては、総参謀部党委員会の討論を経たもので、全て我々の第一書記・トウ小平同志の指示を伺ったものだ」と言うと、その指導者は「わかった!」と述べた。

解放軍報「憶大転折中的几件事

劉少奇の名誉回復は1980年2月でした。

軍部の伸張なのか、危機感なのか (文革正史)<下>」に続く。

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posted by タソガレ at 00:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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