3月8日の『環球時報』より、昨今の情勢に対する糞青どものストレスを垣間見ることのできる記事をば。
アメリカ、日本などのいくつかの国には、タカ派と呼ばれている人々が常に存在する。例えば、アメリカの元国防長官ラムズフェルド、元国連常駐大使ボルトン、日本の東京都知事・石原慎太郎、インド外相ムカジーなど、皆これに属す人物だ。彼らは、国内、そして国際舞台においてものすごい剣幕で、果敢に強行的な態度を鮮明にし、断固として本国の利益を守るという確固たる立場と態度を示し、国家の対外的方向に対して深刻な影響を与えている。更に重要なことは、タカ派の人物は、国家の外交、軍事、安全などの方面の政策策定や制定に対して重要な作用を持っているということだ。
反対に中国を見ると、タカ派の人物は通常人々の非難を受ける。筆者は、このような情況の重要な原因は、海外のタカ派の言動に対して、ある種の過度の誤読が存在しているからだと認識している。このような誤解がはっきりと現われているものが、タカ派の見方と声は非理性的な行為で、ナショナリズムを高揚させ、国家利益を損ない、更には国家の安全面に大してマイナスの影響を及ぼすというものだ。
この問題において、一部の学者は通常、このような論理を有している。第一に、タカ派の言動は、非理性的な民族主義的な情緒を激発させ、国家政策の将来の方向を誤らせる。第二に、タカ派の言動は、海外の反中勢力に容易に利用され、大げさに言い立てることに利用される。第三に、タカ派の強硬な言動と中国の平和的なイメージと釣り合わない。中国はもはや、多くの屈辱を受けた旧中国ではなく、基本的に敵対勢力による大規模な侵略を受ける状況が存在せず、極端な反応や情緒の激動は必要ないのだ。
実際、このいくつかのロジックは、大変議論の余地のあるものではある。筆者がまず強調したいことは、タカ派の言動を、暴力に満ちた野蛮な色彩で、非理性的、衝動的、法律蜂起違反行為であると打ち棄てることは、”タカ派”の概念を移し変えたようなものであるということだ。タカ派の言動は、国家の利益を守ることを強硬な態度表明を代表するもので、一部の西側国家が擁している様々なタカ派が彼らの国家を良からぬ道に導いたことを証明するものは何もなく、これを説明する実例すらなく、彼らの言動が総体的に国家利益の助けにはなっていないのだ。逆に、一部のタカ派には多くの支持者がいて、その背後には強大な支持団体を有しており、これらの団体は、時として国家利益を守る最も強固で、最も保守的なパワーとなることがある。中国を例とするなら、例えば釣魚問題、南沙諸島暗礁問題において、タカ派が強硬な立場を強烈に表明することで相手に対して中国人の情緒を重視させ、中国が核心的利益を守る決心を重視させるのであって、これがよくないことだと言えるだろうか?
中国の平和発展と、西側勢力の私に対する中傷に対して堂々と反撃することは、矛盾するものではない。我々は、複雑な国際社会の言論環境を学び適応しなければならず、なぜなら、ある種の理想化した”あなたも私も良い”といった類の優良な発展的雰囲気など存在しないからだ。
このため、中国は積極的に世界に溶け込み、耳を傾け、西側先進国を理解すると同時に、彼らがこれまで中国に対して行ってきた傷害と苦痛とを正視するよう要求しなければならないのだ。誤解と偏見に対して、我々は友好的態度でお互い疎通し、信頼を増進させ疑いを一掃しなければならないが、頑なに反中的立場を堅持する人間と対面したした際には、我々はあえて剣を手にし、断固として打ち砕かなければならないのだ。この観点から見ると、中国のタカ派は多くなく、少なすぎて、あまり強硬ではない。強硬と非理性は同じではなく、正反対で、強硬とは理性の一側面であり、理性とは様々な異なる言動が組み合わさったものであり、1種類の言動だけの理性は真の理性的とは言わないのだ。
タカ派の存在と勃興は一種の歴史的必然で、このためにタカ派がいない国家は、一家の中に気骨ある男がおらず、寡婦が常に危険と中傷とを受けているようなものなのだ。恐喝を跳ね返すことの出来ない国家は、平和的発展を実現することは非常に難しいことなのだ。
つまり、我々は再びタカ派が中国に対して重要な作用を評価する必要があり、軽率にタカ派の作用を否定したり、一笑に付したりするのではなく、タカ派に対して一定の肝要な空間を与えなければならないのだ。結局、如何なる国家であっても多元的な言動が必要であるということだ。
(作者は北京郵電大学学者、文緒)
環球時報「学者:中国需要更多鷹派人物 不要妖魔化鷹派」
全方位融和外交(グルーバル化)を展開する”毒”が抜けたような現政権に対する不満でしょうか。グローバル化による利益が崩壊したことで、不満を吸収し活性化しつつある輩が動き出しているということでしょうか。
先月、習近平がメキシコ訪問中に「腹がいっぱいになってやることのない外国人がわれわれの欠点をあれこれあげつらっている」なんて発言したのも、こういった背景、苛立ちが表に出たというところでしょうか。
この記事に対して、広州在住の作家でコラムニスト、国際問題研究家で有名ブロガーでもある楊恒均氏が反論します。尚、引用文中の強調箇所は楊氏本人によるものです。
機上で『環球時報』の文緒氏の論評『中国には更に多くのタカ派が必要だ』を読んだので、少し感想を簡単に。
文緒は文中で、米日印などの国と比べると、中国にはタカ派がおらず、更にタカ派の言動が欠乏しているとあり、この点については私も賛成だが、更に一句付け加えたい。中国の体制内には、タカ派がいないだけでなく、実はハト派人物もあまりいないのだ。中国の体制内にある言動はただひとつ、政府スポークスマンとそっくりそのままの言動なのだ。
作者は、中国にタカ派がいない原因に言及し、中国にタカ派が現われると往々にして海外から包囲攻撃され、無責任な一部のタカ派の言論を攻撃され、中国の平和的な勃興という国際的イメージにとって不利となり、簡単に中国において非理性的な民族主義的情緒を引き起こすからだ等と述べている。
作者は中国にタカ派がいないと言っているが、作者の言っているタカ派のいない理由について、私は異なる見解を持っている。
もし、作者の言うように中国にタカ派がいないのは、海外から批判されるからであるならば、中国の民間や知識分子による非難の話をすれば、ちょっとこじつけになるが、中国のハト派人物や穏健派は、より大きな圧力と攻撃に耐えているということになる。我々は、何人かの指導者が、更には訪米した際にいくつか温和な態度をしただけで、上から下まで攻撃を食らわしている。更にアメリカに対して不用に温和なことを述べた人物に対しては、永久に”売国奴”や”アメリカの狗”というレッテルを貼り付けている。
穏健派は、このような攻撃を耐えることができるのに、どうして強硬なタカ派は批判に対して簡単に萎縮し、”いなくなる”のだろうか、これが”タカ派”なのか?
だから、中国にタカ派もハト派もいないのは、中国の世論環境も、専門家の見解も、民間の反応も何ら関係ないと言える。
実際、アメリカや日本に関わらず、どこのタカ派も攻撃を受け続けており、例えば、作者の文緒が例として挙げているアメリカの元国防長官ラムズフェルドももそうだ。可愛そうなこの老人は、私がアメリカで出会った国際問題の専門家たちは、彼のことを語る言葉のほとんど全てがよくない言葉で、酷いものでは、彼はファッショだと揶揄する者もいた。
作者も日本の強硬派に言及しているが、作者は昨年の日本最大の強硬派の結末に触れていない。昨年、日本の防衛隊海軍司令(訳者註:原文のママ)、(多分このぐらいの職位に相当している)が、応募原稿の中で、日本が中国を侵略したのは正義であるとし、尚且つ日本は更に強硬に中国などに対応しなければならないと主張したが、結果、日本の世論が蒼然となり、なんと最終的に辞職せざる得なくなったのだ。これは、堂々とした一国の海軍司令にも関わらず、タカ派的言論を行ったために失脚させられたのだ。この事件は、中国では多くは報道されていないが、昨年の9.18事件や南京大虐殺記念日の時のように、中国民衆も非常に理性的で、一昨年のように現代日本人に対して火を噴くようなこともなく、これは理性的な日本政府や民衆に対する慰めであり恩返しと言えるだろう。
それでは、中国の体制内にどうしてタカ派がいないのだろうか?更に私は次ぎの一句を加える。どうしてハト派がいないのだろうか?これは、我々の言論環境と関係があって、我々の外交が小事の規定がないことと関係があって、我々の国家が高度に統一された思想の指導原則を保持しなければならないことと関連があると私は思っている。
ご存知の通り、アメリカの軍人は、命令に絶対に従うことが天職であるが、しかし、彼らは秘密を漏らさず国家イメージに危害が及ばない状況の下では、彼らも相対的に言論の自由を有している。位が高くない司令員だけでなく、政府スポークスマンでさえも、彼らは国家政策について述べることが場面では、同様に自らの視点を表明することができ、この両方の視点は、時に異なる場合があるので、タカ派とハト派が生まれたのだ。
アメリカのこのようなやり方は、つまり、我々にひとつの問題を気づかせてくれる。アメリカの官員と学者は、常に自由に意見を表明し、タカ派がいて、更に多くのハト派いるが、我々は彼らの意見の影響を受けることはなく、我々はアメリカ政府の態度だけを見ているということだ。我々も知っていることだが、このいわゆるタカ派とハト派が任務を執行する時には、単にひとつの派、政府派であるということだ。このようなやり方をする利点はどこにあるのだろうか?世界中の人々はみな知っているが、アメリカ人は非常に多くの意見があって、非常に多くの選択もあるが、現在の彼らは今の政策を選択し、これは皆さんが見た通りだ。
比較してみると、我々一人ひとりが小さな官員であったり、政府の政策決定機関の末端の一人のくだらない専門家教授であったりするが、根本的に国家の政策や政策決定過程がはっきりしていないので、個人に意見を求める際には、政府の政策を解釈することが己の務めとするところがあって、口調も役人口調となり、外交部スポークスマンのようになるのだ。タカ派やハト派的言論を漏らすことにあまり注意を払わないような人々は、多くが政策の上っ面を誤解し口を滑らしているということだ。それで批判に晒されることがなくとも、自分自身が嫌になり、数週間よく眠れなかったりするのだ。
このような高度に統一された言動の欠点は非常にはっきりしていて、外部が中国には1種類の言論しかないと思わせ、我々が外交政策を調整する際の柔軟な機動性をも失わせているのだ。私は、アメリカ人が中国の某官員の意見に非常に緊張しているのに何度も出くわしたことがあって、集中的に研究していることは中国の政策に変化が現われるのかどうか、あるいはハイレベル同士の闘争が発生するかどうかということだった。あなたたちアメリカ人は自分自身の個人的な意見を発表することができるのに、我々の小役人が発表した意見について、何故にそんなに緊張するのですか?と私は彼らに尋ねた。彼らの回答はこうだ。ええ、あなたたちの政府官員には個人的意見がないですからね、(今の彼の意見は)間違いなく政府の意を受けたもので、我々はあなたたちが転向するかどうか、あるいはハイレベルなところで政治的な闘争が発生しているのかどうかを見ているのです。
本当に笑うに笑えない。中国の官員や一部の体制内の学者も当然ながら個人的な考えを持っており、いくつかの国家と同じように、いくつか異なってもいるが、我々はそれを述べることが出来ないのだ。実は、個人的な視点を表明するということは、完全に言うことが出きるが、これは悪いことではない。ひとつの国家の政策が一致するのに、全員の思想が一致する必要はなく、いわゆる思想の一致とは、現実的ではなく、文明世界において、人々の思想を統一できる政府が、この地球上に存在するなんぞ誰も信じていない。たとえ、自分の将校や兵士であってもだ。思想が一致していると標榜することは、実際に行動を行う時には、往々にして最も容易に瓦解するものなのだ。いわゆる思想統一とは、人々を騙すことではなく、更には自分を騙すことでもないのだ。
各級官員や政府の一部の学者に話をさせると、時間を忘れ、更に我々は思想が活発になり、政府に対して更なる活力を注入することができることに気がつき、尚且つ、我々の国際社会における環境空間を更に多く転じさせることができると私は思っている。
特に、一定層に達していない官員や広大ないわゆる体制内学者(中国には1人も体制内でない学者がいないようだが)について、我らの職責は、共通認識を達することで、これは有害なことなのだが、彼らが個人的意見を発表する際にそれぞれの政策ごとにある程度賛同させるようなことではないのだ。皆さん、少し考えてみてください。我々が建国してから60年、それぞれの政策が全て正確であり過ちがなかったのだろうか?如何なる官員や、更には体制内の学者も、誰も個人的な意見を発表してこなかっただろうか?もし彼らが発表したなら、たとえ国家政策の実行に影響を与えることがなくとも、トップ層に民衆には異なる声が存在すると知らしめることができるのだ。知るべきは、国家の政策の良し悪し、一般庶民のこれらの政策に対する認識と理解は、根本的に制定し執行する彼らの官員達を超えることは不可能であるということだ。官員達こそが最も発言権を有しているのだ。
中国はタカ派を必要としているだけでなく、穏健派も必要であり、中間派も必要であり、個人的な視点を表現できる環境が必要なのだ。政策や策略の実行という共通認識に影響を及ぼさないのであれば、我々は皆に高度に思想統一を保つよう強要すべきではないのだ。
中国が最も達成しなければならない”高度な共通認識”とは、我々一人ひとりが、異なる意見や視点、共通認識を表現できることが必要であるということだ。
楊恒均 2009/3/7 北京
楊恒均的博客「中国為什嘛没有鷹派人物?」
原理原則に縛られ外交が柔軟性を欠き、その弊害が自らに降り注いでいるといった話は、反日華やかりし頃にもよく言われていたことですね。また、独裁は強いが硬く折れやすく、民主は弱いが柔軟で壊れにくい、という話にも通ずるでしょうか。
この反論者が、必要性を力説している”高度な共通認識”を、つい先日の全人代で呉邦国が明確に否定していました。
直接的に言論の自由を否定したわけではありませんが、零八憲章署名の広がりへの危機感と牽制なのでしょうか、政治改革について西側のような政治制度、つまり政権交代可能な多党制、三権分立、二院制といった方向へ進むことを明確に否定し、中共独裁維持を宣言しておりました。
この反論を眺め違和感、または歯がゆさを感じるのは、「言論の自由」にだけに触れ、政治制度としての多様性に明確に触れていないからでしょうかね。百花斉放百家争鳴からの反右派闘争という黒歴史を有している政権下で、「言論の自由」を唱えられてもねぇ。





