胡錦涛伝@1989チベット

2006年03月10日

taiwan_tibet01.jpg今日3月10日は、47回目のチベット民衆蜂起記念日です。1959年3月10日に中共に対してチベット民衆が蜂起しました。日本のマスコミは何事もないかのようにひっそりとしていますが、台湾では与党民進党が初めて参加したデモが行われようで、その様子が報じられています(記事)。中共、胡錦涛が共通の敵ということでしょうかね。ということでチベットに関する話題をば。

現国家主席・胡錦涛とチベットとのつながりは深く、またこの3月をチベットにとって悲しい月にした張本人の一人でもあります。胡錦涛は、1988年12月28日にチベット自治区党書記に就任します。そして、1989年3月5日から2日間のチベット動乱を武力鎮圧し多数の死傷者を出し、3月8日には以後419日間続く戒厳令を発したました。戒厳令が解除されたのは、1990年5月1日です。

胡錦涛は、この1989年のチベット動乱の武力鎮圧などが中央の目に止まり出世しました。この出世する契機となった1989年チベットでの胡錦涛の動きを2003年2月に出版された『胡錦涛』に拠りながらまとめてみます。

この『胡錦涛』という著書、著者は楊中美で監修として趙宏偉なる人物の名前があります。両名とも日本の大学の教壇に立っています。この楊中美や趙宏偉という人物の立ち位置がどこにあるのか詳しくは知りませんが、楊中美はやや胡錦涛を持ち上げ、飾り立てすぎかな?と思えますが、プロパガンダ色はそれほど強くなく比較的客観的に綴られていると思います。

ところが、巻末に補章という形で採録されている監修者である趙宏偉の文章はいただけません。胡錦涛の対日姿勢に言及しているのですが、基本的な事実誤認から始まり、単なる反日侮日思想に立脚した文章となっています。反日侮日を叫ぶ”知識人”の考えがわかるという点では面白いのです。個人の資質の問題であったり、あえて工作しているとも考えられますが、自由に情報を得る環境にいるにも関わらず対日となると客観的考察はともかく、基本的な事実誤認を訂正することができず思考停止してしまう人が多いのだろうなと思ってしまいます。

胡錦涛赴任前のチベット

1978年にトウ小平が中央で実権を握って以降、全国各地で改革開放を推し進められていましたがチベットだけは文革以来の旧態依然とした状態でした。当時のチベット自治区党書記は、極左で軍出身の任栄。これに対して党総書記・胡耀邦は、1980年5月にチベット視察を行い、貧困からの脱出を第一の目標に掲げ、民族自治拡大などを提唱し、これまでのチベットの施策を批判し、チベット自治区党書記の交代を命じます。

胡耀邦の5月29日、チベット自治区幹部大会での演説。

今日のチベットの状況は、完全に素晴らしいものとは言い難い。・・・(中略)・・・9日間に及ぶ調査旅行の結果判明した現在の状況は、チベットの民衆の生活環境には大きな進歩が見られなかったということだ。・・・(中略)・・・これは我々が、率直に認めなければならないことである。チベットの民衆の生活は、大きく進歩してはいない。幾らか退歩した地域さえある位である。華国鋒主席およびトウ小平副主席たちの中央委員会の同志たちは、この知らせを聞いて非常に悲しんでいた。我々の党がチベットの人民の期待を裏切ったのだと感じている。

(中略)

5番目の重要な問題は、社会主義の堅持を前提としながら、精力的にまた完全にチベット人民の科学・文化・教育を振興させなければならないということだ。勿論ここには前提があり、社会主義は堅持されなければならない。漢民族の幹部の間には、少数であるがチベット民族が遅れているとの誤った見解を持っている人々がいる。私はこの見解には同意しない。これは間違っている。チベット文化は際立って豊かで、その歴史は太古に溯ることができる。ポタラ宮殿は300年以上の歴史を有し、ジョカン寺は1300年以上もの歴史を有している。チベットは、太古からの歴史を有し、世界的に有名な古代文明と非常に優れた仏教経典研究の成果を有している。チベットはまた、極めて優れた音楽と舞踊、彫像、絵画、建築、チベット医学を有している。チベットの音楽や舞踊は、我々漢民族のものよりもずっと優れていると、私は考えている。

(中略)

チベット人が主体であるべきだ。98パーセントが、チベット人でなければならない。では漢民族はどこへ行くのだろうか。彼らは内地に行けば良いであろう。生涯を通じてチベット人に奉仕しようとの決意をしている者だけが、ここに来るべきだ。

(中略)

チベットで働いている漢民族幹部は、チベット語を学ぶべきだと、私は考えている。あなた方は10年も20年もここで働いているにも拘わらず、チベット語の能力は私と変わらない。『タシ・デレ』というような目出たい言葉位しか知らない。私のような遅れた人間の真似をすべきではない。どうして学ぼうとしないのか。チベットで働く漢民族幹部はチベット語を学ぶべきだと、私は思う。これは必須であるべきだ。さもなければ、あなた方は大衆から浮き上がってしまうことだろう。あなた方が少数民族に暖かい気持ちを抱くということは、単に口先だけでの話ではない。あなた方は、彼らの習慣や風俗また言語を歴史を文化を尊敬しなければならないということだ。もし実際にそうしなければ、それは空念仏になってしまう。繰り返してもう一度言いうが、チベットの文化を否定したり弱体化させようとの政治思想を持っている漢民族幹部は、たとえそれが誰であっても、完全に間違っているのだ。民族の統一強化に損害を与えているのだ。

(中略)

毛沢東同志や周恩来首相がご存命の間は、その指導に基づいてチベット人幹部が60パーセントを占め、漢民族幹部が40パーセントを占めていた。これは1950年代と60年代の終わり頃には、そう言われていたからだ。しかし昨日我々が議論した結果、ここ2、3年の内に、私の見解では2年以内が最善だと思うが、チベット人幹部が自治区幹部の3分の2以上を占めるべきだということになった。生産部門ばかりではない。教育部門も含めてのことだ。生産部門の幹部について言っているのではない。それは全員が、チベット人幹部であるべきだからだ。我々は、この土地に30年間暮らして来た。そして歴史的な仕事を成し遂げた。我々の肉体は、ここの風土に適していない。漢民族幹部がなぜ、ここに来て労働者としてまた公務員として働かなければならにのだろうか。

Tibet News Digest vol.35 「チベットに謝罪した中国の指導者 胡耀邦の1980年の演説

ちなみに現在の中共の歴史では上記演説はなかったことになっています。

胡耀邦の叱咤激励にも関わらず、なかなか思うような成果が上がらず1985年にはイ族である伍精華を新しいチベット自治区党書記に任命します。伍精華は、チベット人の信仰の自由を尊重し民族融和政策を更に推し進め、チベット人たちから「ラマ書記」などと呼ばれ親しまれていました。

ところが1987年に胡耀邦が保守派の巻き返しに会い、1月16日の政治局拡大会議で辞任を要求され失脚するとその影響がチベットにも波及します。漢族幹部とチベット族幹部とが衝突し不穏な空気が蔓延しだします。また、この年の9月にダライ・ラマがアメリカで「五項目の和平プラン」を発表し、チベット独立の意向を表明しこの空気を更に不穏なものにします。

  1. チベット全土を平和地帯とすること。
  2. 民族としてのチベット人の存在を危うくする中国人の大量移住政策の放棄。
  3. チベット人の基本的人権と民主主義自由の尊重。
  4. チベットの環境の回復と保護。中国がチベットを核兵器製造及び核廃棄物処分の場所として使用することの禁止。
  5. 将来のチベットの地位、並びにチベット人と中国人の関係についての真摯な交渉の開始。
ダライ・ラマ法王日本代表部事務所「五項目の和平プラン

この五項目の和平プランは、チベットにも伝わり、以後チベット国旗を掲げたデモ行進などの独立運動が活発化するようになります。チベット自治区党書記であった伍精華は、今までどおり胡耀邦路線で進むかどうかの判断に悩んでいたが中央からは何の指示もないまま、心労を煩い1988年6月に倒れ北京に搬送されます。この事態を受けて胡錦涛が登場するわけです。

初の文官チベット自治区党書記の誕生

胡錦涛の政治的後見人である宋平がトウ小平に胡錦涛を推薦し、トウ小平は胡錦涛が貴州省で学生運動をうまく鎮圧させたということを記憶しており「突発的な事態に対応できる」として、胡錦涛のチベット自治区党書記任命を許可します。混迷を深めるチベット行きを止める者もいたようですが、胡錦涛は胡耀邦失脚によって一時は途絶えたと思っていた出世レースに再び参加できるなどとして意欲的にこの任を引き受けたようです(胡耀邦と胡錦濤は団派)。

こうして1988年に12月28日に胡錦涛は、チベット自治区党委員会書記に就任します。ここに初めて軍人出身ではなく、文官出身のチベット駐在大臣が誕生しました。

この人事と共に中央は、3つの施策を胡錦涛に授け支援を行います。

  1. 幹部人事を一新
    胡耀邦の民族融和政策によってチベット人幹部の比率が増やされていたが、この比率を元に戻すべく漢族幹部を大量にチベットに派遣する。
  2. 経済発展の為の援助を行う
    貧困からの脱出が安定をもたらすという考えの下、経済発展の為の人的金銭的援助を行う。
  3. パンチェン・ラマ10世のチベット巡礼を許可する
    1962年に毛沢東への7万字あまりの抗議文を突きつけて以来、北京で軟禁されていたパンチェン・ラマ10世をチベット人心安定と把握の為にチベット巡礼を許可する。

1988年末にパンチェン・ラマ10世はラサに到着するのですが、翌年の1989年1月28日にパンチェン・ラマ5世から9世までの供養儀式の最中に倒れ、パンチェン・ラマ10世はそのまま亡くなります。これによりチベットの雰囲気は一気に険悪な状態になります。

戒厳令発布

この事態を受けて胡錦涛は、2月6日に2月末から3月にかけてチベットで行われる宗教行事「大法会」の開催中止を発表します。これに対して翌日、ジョカン寺に多くのチベット人たちが集結しチベット国旗を掲げて独立へのスローガンを叫び、一気に独立への機運が高まります。

胡錦涛は、すばやく軍責任者を含む緊急党委員会を招集し現状分析と対策を行います。この中で胡錦涛は文官地方党書記としては異例の軍の出動準備と出動命令の権限を自分に与えるように中央に要求します。これを受けて中央は、趙紫陽がトウ小平の意向を確認し、直接胡錦涛に電話でこれを許可し、胡錦涛に軍に対する出動命令と軍把握のための根拠を与えます。更に戒厳令については、胡錦涛が必要だと思われるタイミングで中央に提案するようにとしました。

3月5日、ジョカン寺に多くの市民が集まり独立スローガンなど叫びラサ市内で大規模なデモが発生します。これに対して胡錦涛は、午後1時40分に武警を主体とした部隊に対して武力鎮圧を命じます。

この武力鎮圧は2日間にわたり、当局発表によると死者12人(1人の警察官含)、ダライ・ラマ亡命政府の発表によると死者60人以上負傷者100人以上、海外メディアは旅行者などの目撃情報から死者は500人から800人と伝えました。

武力鎮圧は終わりましたが、3月10日はチベット民衆蜂起30周年記念日にあたり大規模なデモが発生するとして警戒心を緩めることなく、3月7日に再び緊急党委員会を召集し、胡錦涛は次のように述べています。

「われわれは祖国の統一、または分裂に関わる重大な問題において、旗印をはっきりと示し、立場をはっきりさせなければならない。今、チベットでわれわれが一歩でも退いたとしたら、われわれは民族の罪人となってしまい、第二の秦檜(南宋の宰相。金との南北分治を推進した)や汪兆銘(日中戦争時、日本の傀儡政権を樹立した)になってしまう。したがって今われわれは軍を出動させ、ラサで戒厳令を敷かなければならない。こうしてはじめて情勢を安定させることができるのだ。」
胡錦涛(p.132-133)』

そして以前の取り決めの通り、「今こそ戒厳令を発布するときです」と中央に報告し、これに対して中央はすぐに反応し8日付でチベット戒厳令の命令書を送付しました。しかし、胡錦涛は8日を待たずしてチベット自治区政府の名前で7日に「8日より戒厳令を発布する」と宣言します。

3月8日零時にラサ市内に戒厳令が敷かれたとき、胡錦涛は軍服を纏い鉄のヘルメットをかぶり戒厳部隊と共にラサ市内の街頭に現れ、この写真を新華社が全国に配信したようです。見てみたいですね。

このときの胡錦涛の働きに中央のトウ小平ら党長老たちに強い印象を残すこととなります。それは、胡錦涛がラサでデモ隊を武力鎮圧し戒厳令を発令した方法をそのまま3ヵ月後の6月4日に北京で再現したことからもわかります。胡錦涛は、第二次天安門事件の模範となる働きをラサで演じていたわけです。これが彼の中央での異例の若さでの出世につながります。

少し話がそれますが、89年の天安門事件を大量の流出した内部資料を元に再現した『天安門文書』という本があります。オリジナルは英語版で、そこから中国語版、日本語版と翻訳され出版された書籍です。

ケ小平ら党中央の私的に交わした会話内容といった極私的な内容まで暴露されている本で、もちろん資料の真贋論争はある本ですが「捏造は不可能だろう」という結論に落ち着いています。

この本の中では、その時々で地方の情勢を中央に知らせた文書も掲載されていて、北京での動きが地方の学生らにまで大きな影響を与え、北京だけでなく全国的な運動の広がりがあったことがわかります。新疆でウラン鉱鉱夫らが被爆障害問題改善を訴えてウルムチで座り込みをしたり、長江の橋で学生らが鉄道を止めたりと様々な地方から報告が寄せられていたことが記されています。

ところが、チベットからの報告が1通も掲載されていないのです。当時のチベットすでに戒厳令が敷かれ厳しい軍政の下にあったとはいえ、1件も報告されていない、流出文書になかった、というのは不自然な気がします。

文書がまとめられ英語版が出版されたのは2001年です。当時胡錦濤はすでに、国家副主席、軍事委員会副主席と将来を約束された地位に着いていたとはいえ、江沢民が自身を後継指名するかどうか予断を許さない状況でした。

文書流出に何らかの政治的意図があったのは間違いないでしょうね。

閑話休題。

ラサでの武力鎮圧から約1年後の1990年3月30日に胡錦涛は、北京で外国人記者を前にして次のように述べています。

中国政府の、チベットを含む祖国統一を守る決意は、百年、いや千年たっても変わることはない。誰かが祖国の分裂を許したら、その誰かが中華民族の罪人になるのだ。
胡錦涛(p.138)』

胡錦涛は、チベットに赴任して1年ほどで高山病を患い体調を崩し、ラサを離れて四川省成都のチベット事務所に仕事の拠点を移動しています。到着直後に高度順応できずに高山病を患うという話は聞いたことがありますし、私自身も経験したことがあります。1年以上経った後に高山病によって体調を崩すなんてことがあるのでしょうかね。

ともかく成都で業務を行っていましたが、体調が回復することなく北京で治療に専念することになり、1990年の暮れに北京に帰ってきています。その後、2年ほど悶々と北京で過ごしていたようですが、1992年にトウ小平が南方講話を行い一気に改革開放を進める方向へ舵を切ったときに、江沢民ら第三世代に代わる第四世代の代表格として宋平らの推薦もあり中央に呼ばれることになります。政治局常務委員会は、次の3点を挙げて胡錦涛を正式に推薦しました。

  • 胡錦涛は四十九歳であり、これはトウ小平同志のさらに若い第四世代の後継者を選ぶ方針に合致している。
  • 胡錦涛は中央で共産主義青年団書記、地方で省党委員会書記を長年務めた経験をもち、すばらし実績を残した。
  • 胡錦涛は知識レベルが高く、創造性、開拓精神に富んでいる。
胡錦涛(p.152)』

トウ小平も「私は、胡錦涛をよい人物だとみている」と承認を与え、中央進出を果たすこととなりました。

Tibet Cry Of The Snow Lion
Tibet oppression
参考サイト
ダライ・ラマ法王日本代表部事務所「ダライ・ラマ法王が著した1959年3月10日
Faith in Exile - A video by the Guerrilla News Network」(ドキュメンタリー英語
Videodokumentation af overgreb」(暴動鎮圧の動画)
COMPASSION IN EXILE: The Story of the 14th Dalai Lama
ahimsa「CARRI ARMATI CINESI A LHASA 1989
新華社「走進西藏的歴史
Boykot Kina
China Vitae「Hu Jintao
以前作成したバナーです。入用でしたらご自由にお使いください。
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posted by タソガレ at 23:26 | Comment(5) | TrackBack(4) | 中国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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この記事へのコメント
Dalai Lama Wants to Make First China Visit
http://news.yahoo.com/s/ap/20060310/ap_on_re_as/dalai_lama

"As a country with a long history of Buddhism, China has many sacred pilgrim sites," he told his followers. "As well as visiting the pilgrim sites, I hope I will be able to see for myself the changes and developments in the People's Republic of China."

仏教の長い歴史を持つ国として、中国には神聖な巡回地が多くあり、それらを訪れると同時に、中国の変化と発展を自分の目で見てみたい。

だそうです。

台湾と呼応して自治独立に進んでいかないかと期待。
Posted by 無価値 at 2006年03月11日 10:42
無価値さん、こんにちは。
この申し出、中共はどのように対処するのでしょうね。結局は今までと同様に断るのでしょうが、受け入れた場合は金正日など比べ物にならないぐらいの厳戒態勢と報道管制を敷くでしょうね。パンチェン・ラマ10世の二の舞はごめんでしょうし。
昨今の台湾の動きやこのダライ・ラマの動き。アメリカの動きなど、オリンピックを控えて動きが慌しくなってきたように見受けられます。それに比して中共外交部の暴走とリンクするかのような解放軍の政治への影響力拡大の兆候が見え隠れ。色々と期待が膨らみますね。

解放軍総裝備部高将「国産空母作るよ」
http://www.wenweipo.com/news.phtml?news_id=CH0603100007
Posted by aki at 2006年03月11日 11:29
ども。

断れるんでしょうか?このタイミングで。

香港から枢機卿が選出され、呼応するかのように地下教会を摘発してますが、それもYahoo! Newsで流れてますし。
http://news.yahoo.com/s/ap/20060302/ap_on_re_as/china_banned_church

いまさらですが。文春文庫のダライラマ自伝を拝読しております。ダライ・ラマ少年はなかなかのヤンチャ坊主だったようで。(w
Posted by 無価値 at 2006年03月12日 00:25
参考になります。
TBさせていただきます。

Posted by 慶次 at 2006年03月12日 09:45
無価値さん、こんばんは。
中国訪問が実現すれば大事件ですが、おそらく断ると思います。確か中共はダライ・ラマを宗教指導者ではなく、チベットの分離独立を煽る独立分子の親玉と定義していたはずです。
ダライ・ラマは、国際世論と信仰の自由を盾に中共に対して揺さぶりをかけ、中共は分離主義者として拒絶する。この繰り返しです。14日に温家宝の記者会見が行われるようですし、そこで何か言及があれば可能性があるかも知れませんが難しいと思います。

> 香港から枢機卿が選出
これ、先日の李肇星の記者会見で香港の記者が意見を求めていました。李肇星は、「香港は香港の法律などにより運営されており、バチカンのいかなる関与も望まない」などとトンチンカンな回答しています。奴らにとって宗教、信仰の自由という概念そのものが理解できないのだと思います。

昨年末も西安で修道女が市当局の雇ったゴロツキ襲われるという事件を起こし、これに対してバチカンが激しく批判し、欧米では大きく報じられました。懲りずに同じことを度々繰り返しているわけです。信仰の自由という概念が理解できないのですから、それを侵したことに対する批判も軽く捉えているのではないでしょうかね。

ダライ・ラマ少年、好奇心も旺盛だったみたいですね。ラジオや映写機を分解して組み立てていたりしていたというエピソードがあった記憶があります。

慶次さん、ありがとうございます。
Posted by aki at 2006年03月13日 22:25
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チベットをおもう。

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